炎昼の、深海
✳︎
彩りどりの。
薔薇の園庭を、抜けて。
受付の金魚に、切符を渡す。
錦鯉の学芸員が、愛想良く。
私を、底へと導く。
動物園というのは、嫌いだ。
どうして、あんなにも。
明るく、振舞えるのだろう。
ふと、私は。
繭の中で、糸を吐き続ける。
白蛇の令嬢を、想う。
その、不恰好な羽根が。
懸命に、羽ばたく姿を。
浮かべる。
深海から、仰ぎ見る波間で。
きっと其れは、美しいから。
水槽の、内側から。
宛名の無い手紙を。
瓶に詰めて。
浮かべる。
程無く。
水圧に、耐え兼ねて。
瓶は粉々に、砕け散る。
宛名の無い手紙が。
人工海水の底に、降り募る。
程無く。
水圧に、耐え兼ねて。
水槽は粉々に、砕け散る。
程無く。
気圧に、耐え兼ねて。
私は粉々に、砕け散る。
彩りどりの。
動物園の、ペンギンの餌。
先頭車両の気狂い
✳︎
嘘のような。
本当の話でも、しようか。
実に、今朝ほどの、ことさ。
肘が当たったか、足を踏んだかの、
騒ぎが、一つ前の、電車であって。
私が、飛び乗った先頭車両は、
実際のところ、飛び乗るまでもなく、
発車する気配など、無かった。
そんな、先頭車両に、
乗っていた。先客の一人が。
件の、気狂いであった。
大丈夫?大丈夫?
気狂いは、まるで。
田舎の特急で、車掌が検札でも、
するかのように。
頭を、がっくんがっくんと、
させながら。先頭車両を練り歩き、
乗客に訊ねて、廻っている。
トランシーバーのように、
ペットボトルを、耳元に当てた、
気狂いは。幸いにも、暴力的では、
なかった。
大丈夫?大丈夫?
訊ねられた乗客は、無視を決め込むか、
稀に、穢れを見てしまった。
そんなような、顰め面をする者も、
いたが。しかし、誰一人、
気狂いの問いに、答える者など。
もちろん、いない。
大丈夫?大丈夫?
そして、私は気付く。
坊主に頭を剃った、気狂いは。
決して、やたらめったらと。
片っ端から乗客に、訊ねている、
わけではない。何か、気狂いには、
気狂いなりの、道理があって。
祝福すべき人、もとい、
訊ねるべき人を、選別して。
練り歩いて、いる。
大丈夫?大丈夫?
私の、手前の、
女の人が、訊ねられた。
無、反応。
大丈夫?大丈夫?
私を、飛ばして。
次の、次の、次の辺りの、
どなたかに、訊ねている。
大丈夫?大丈夫?
そうか、私は。
気狂いの、道理に依れば。
大丈夫?大丈夫?
訊ねるべき人では、なかった、
らしい。
大丈夫?大丈夫?
其れは、何か、恐るべき、
先頭車両の、啓示から。
私という人間は、
漏れて、しまったという。
つまりは。
そういうことでは、
なかったのか。
大丈夫?大丈夫?
そのような、疑念に。
囚われる私が、
正気と、呼べるのか、
果たして。などと。
大丈夫?大丈夫?
肘が当たったか、足を踏んだかの、
騒ぎが、一つ前の、電車であって。
私が、飛び乗った先頭車両は、
実際のところ、飛び乗るまでもなく、
発車する気配など、無かった。
大丈夫?大丈夫?
先頭車両の気狂いが、
訊ねて、廻る。
練り歩いて、いる。
大丈夫?大丈夫?
いったい、どれほどの、
正気の人が。
先頭車両には、乗っていると、
いうのだ。
大丈夫?大丈夫?
私が、思わず叫ぶ。
ことは無い。決して。
大丈夫?大丈夫?
嘘のような。
本当の話の、此れが顛末。
実に、今朝ほどの、ことさ。
大丈夫?大丈夫?
私の脳裡に、リフレインする。
大丈夫?大丈夫?
ねぇ。其れは、実際のところ。
大丈夫?大丈夫?
他ならぬ、貴方の、脳裡にも。
大丈夫?大丈夫?
リフレイン、しているんだよ。
大丈夫?大丈夫?
大丈夫。大丈夫。
『ぼくを探しに』は「ファシズム入門書」に最適!
✳︎
《呪詛と断想の“ファシズム”》
《だから“ナチズム”は「失敗」であった》
鯱狗が物心の付いた時分には、
「宝物」であった絵本がある。
『しろくまくん、どこへ?』
『わすれられないおくりもの』
そして。
『ぼくを探しに』
この、三冊であった。
もちろん、その当時には、
判るハズも無かった(笑)が。
今にして、思えば。
『ぼくを探しに』という絵本は、
アレほど「抽象化」されてしまえば、
ほとんど「詩」のようなモノで、
つまりは「政治の匂い」がするのだ。
ソレこそが、他ならぬ、
“ファシズム”ではないのか。
あの物語は、
“ぼく”と、無数の“きみ”達によって、
構成されている。“ぼく”もまた当然、
誰かにとって、無数の“きみ”である。
そして“ぼく”は、およそ99%の、
“きみ”とは「分かり合えない」。
その上で。
もし、たった1%の“きみ”と、
奇跡のように、巡り会って、
「分かり合えた」としても。
ソレは「歌う自由の喪失」であって。
「幸福」とは「違うモノ」であると。
そこまでを、描いてみせているのだ。
…注意深く、読み解いて、頂きたい。
物語には、徹頭徹尾、
「“きみ”への配慮」などは「無い」。
あくまで、すべては、
「“ぼく”のため」でしか、ないのだ!
その「傲慢」こそが、
“ファシスト”に「目覚める」第一歩。
「孤独な、無数の“ぼく”達」が、
「歌いながら、転がり続ける」。
花の香りを嗅いで、蝶と戯れて。
ソレが“ファシスト”の「理想」。
「歌う自由」も、
「花を嗅ぐ自由」も、
「蝶と戯れる自由」も、
すべて「喪失」してでも。
“ぼく”と“きみ”は、
「分かり合わねばならない」。
ソレこそが「幸福」であると。
“ぼく”を脅迫するモノが、
“スターリニズム”である。
あなたが「ファシストではない」のなら、
あなたの子供には、『ぼくを探しに』を、
「読ませるべきではない」と、忠告する。
「抽象化されたモノ」というのは、
「詩」であり、「政治」であって、
だいたい「危険」であるのだから。
もし、万が一にも(笑)、
「ファシスト国家」が樹立された暁には、
『ぼくを探しに』は、小学校の一年生の、
「教科書」に採用せねばなるまい( ̄▽ ̄)
ソレぐらいには、
「ファシズム入門書」として、素晴らしい!
まぁスラスラと、読み解いて貰わなければ、
「ファシスト国家」では「出世」できぬよw
高校生にもなったら、
ロラン・バルトに挑戦させるのが、よろしい。
実際のところ、
バルトは「反ファシズム」であるというより、
「反ナチズム」であり、彼の“神話”の認識は、
極めて“ファシスト”として「正しい」(苦笑)。
しがない「ファシスト見習い」より、
バルトに反駁を試みるとするならば。
「発言を強要する」のは“ナチズム”であり、
つまるところは、“スターリニズム”である。
“ファシズム”は、「発言を聞き流す」のだ。
およそ、「ありとあらゆる側面」において!
ではではw
荒野に打ち捨つらる、レゾンデートルの黄衣
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此処に、引き金がある。
引くのを恐れる、僕がいて。
嬉々として引く、俺がいて。
引いては悶える、私がいて。
バエルには、三つの首が、あるという。
猫と、ヒキガエルと、老王と。
為すべきことを成して、括ることが。
幸福の絶頂で果つということならば。
……ジーザス。
貴方は、私の師であり。
私の死であり、私のサタンであった。
「ジューダス、お前もか」と。
驚き、嘆き、憤怒してくれたなら、
僕はきっと、救われたのだろうに。
なんて、厭らしい人。
赦しなど、請うて堪るか。
接吻は呪い。
香油は呪い。
幸福は呪い。
マティアなら、きっと。
私より、もっと、ずっと。
上手く、やっていけるでしょう。
そして、世界は。
貴方という人を、永遠に喪うのだろう。
歴史の庭が、裂けて。
勝者の見下ろす底へと、
ただ、墜落していく。
私は、嗤っていた。
歴史なぞ、幾らでも、くれてやる。
物語は。
この物語は、私の。
私だけの墜落。
だから“ナチズム”は「失敗」であった
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《呪詛と断想の“ファシズム”》
“ナチ”は、しばしば。
このように“ナチズム”を「擁護」します。
「ナチスだって、悪事ばかりしてたワケじゃないよ!」
「アウトバーン建設とか、失業率を劇的に改善したし」
「国民の健康推進や、動物の権利保護も先進的だった」
“ファシスト”は、もちろん。
このように“ナチズム”を「批判」します。
「『だから』“ナチズム”は『失敗』であった!」
どうして「政治」が「幸せのカタチ」を、
「規定してやる必要」などが、あるのだ。
ソレを“我々”は、
“スターリニズム”と、呼ぶのである!
“ファシズム”とは、
もっと遥かに「呪術的」なモノなのだ。
「失業が不幸であるファシスト」がいたら、
職を斡旋してやるべく、“我々”は尽力するだろう。
「病苦が不幸であるファシスト」がいたら、
優れた医者を探そうと、“我々”は奮闘するだろう。
…しかし、“我々”は。
「失業が不幸である」とも。
「病苦が不幸である」とも。
「勝手に決め付ける」コトは、しない。
「貴様は不幸な人間なのだ」と、
「外野から決め付ける」コトは。
ファシストの「美意識に反する」から。
「貴様の不幸は、貴様で規定しろ」
「貴様の幸福も、貴様で規定しろ」
これほどにも、“ファシズム”とは、
「ヒトデナシの政体」であるのだ。
だから“我々”は「アンチリベラル」を、
まったく堂々と、主張し得るのである。
「同情するならカネをくれ!」と心から叫ぶ、
「己の『不幸』は『カネが足らない』その一点!」
「他に『同情』されるような謂れなんか、無い!」
もちろん、フィクションのお話ではあるのだが、
ソレは実に「アンチリベラルの意志」であった。
「同情するならカネをくれ!」とは、
なかなかの「詩」であったと言える。
すべては。
「詩人が野垂れ死ぬ自由」のため。
“ファシズム”とは。
「貧乏長屋の政治」である。
以上、御拝読のほど、誠にありがとうございました。
“ファシズム”の「参照先」は、果たしてニーチェなのか
✳︎
“我々団”総統、外山恒一閣下の諸論文には、
大いに感銘を受けている、鯱狗なのですが。
しかし…実は一点、
意見が「相違」するのが、表題の件。
総統閣下は、
「ファシズムもナチズムも、大して変わらぬ」
と、仰られるワケですが。
鯱狗の考えでは、
“ファシズム”と“ナチズム”は、
「明確に違う」のではないかと。
その「違い」を生む点こそが。
“ナチズム”は、
「ニーチェを参照してしまった」
という点なのではないかと。
…何故なら。
「神は死んだ」と宣言をして、
「意志の勝利」を掲げるのは。
“リベラル”側の「本質」だから!!!
ソレこそが、
「ナチズムのスターリニズム的性質」であって、
「ファシズムからの変容・劣化」ではないかと。
鯱狗は、そのように考えるワケです。
総統閣下のファシズム論にて、
何と言っても、素晴らしいのは。
という「ファシズムの本質」を規定した点。
《“おかしのまちおか”がある「アーケード街」は》
「戦争」という、まさしく「極致」での、
「人倫の限界」と「獣性の高揚」を知る、
我らがドゥーチェの発見した「境地」は。
つまり……むしろ。
「故郷の喪失への確信」という。
「“ニヒリズム”の極致」にこそ。
「核心」があるのではないかと。
だからこそ、
ドゥーチェの「知性」は、
「極左」に端を発しながら、
「リベラルを脱した」のでは?
“ファシスト”は、常に「確信犯(誤用)」です。
何故なら。
「故郷」さえも、アッサリと「喪失」するほど、
「取るに足らぬモノ」であると「知っている」。
だから「確信犯(正調)」に足り得るような、
「審美(イデア)」など決して「信じない」。
その上で。
「確信犯(誤用)」として、
「革命ゴッコ」に「興じる」。
「革命ゴッコ」をこそ、
「故郷」であると、
「自覚的」に「己を騙す」。
「ファシズムは擬似革命」という指摘は、
まったく、全面的にも「正しい」ですし、
ファシストは、それを「自覚」している。
その「痛切で滑稽な自覚」こそが、
山岳ベースで「総括」を繰り返した“彼ら”と、
“我ら”ファシストとを、明確に「区別する」。
言ってしまえば。
「格闘技」など「ツマラヌ」から、
「プロレス」を「発明する」のが。
“ファシスト”であるワケです!(笑)
違いは「単純」。
“ファシズム”は、
「確信犯(誤用)」として、“団結”を「目的」とする。
“ナチズム”は、
「確信犯(正調)」として、“団結”を「目的」とする。
“スターリニズム”は、
「確信犯(正調)」として、“団結”を「手段」とする。
つまり、ナチズムとは、
本来ならば「対偶」であるべき、
「鬼子」であるワケです。
だからこそ、我らがドゥーチェは、
フューラーを「小馬鹿」にしますw
だって、ナチズムには、
ドゥーチェの愛する「可笑しみ」が足りない!
コレだから、ドイツ人ってヤツは…と、
ドゥーチェも呆れるワケですよ(苦笑)。
「正調ファシスト」ならば。
「退廃芸術」を「可笑しむ」。
ナチズム、或いはスターリニズムから、
ファシズムを見分ける「単純な違い」。
「詩人」の類が「生き延びられる」のは、
或いは「プロレスの興行」を打てるのは、
「Marilyn Mansonのライブ」に行けるのも、
この三者の中じゃ、ファシスト国家だけ!(笑)
“ファシズム”とは。
「退廃芸術」そのもの。
以上、御拝読のほど、誠にありがとうございました。