だから“ナチズム”は「失敗」であった
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《呪詛と断想の“ファシズム”》
“ナチ”は、しばしば。
このように“ナチズム”を「擁護」します。
「ナチスだって、悪事ばかりしてたワケじゃないよ!」
「アウトバーン建設とか、失業率を劇的に改善したし」
「国民の健康推進や、動物の権利保護も先進的だった」
“ファシスト”は、もちろん。
このように“ナチズム”を「批判」します。
「『だから』“ナチズム”は『失敗』であった!」
どうして「政治」が「幸せのカタチ」を、
「規定してやる必要」などが、あるのだ。
ソレを“我々”は、
“スターリニズム”と、呼ぶのである!
“ファシズム”とは、
もっと遥かに「呪術的」なモノなのだ。
「失業が不幸であるファシスト」がいたら、
職を斡旋してやるべく、“我々”は尽力するだろう。
「病苦が不幸であるファシスト」がいたら、
優れた医者を探そうと、“我々”は奮闘するだろう。
…しかし、“我々”は。
「失業が不幸である」とも。
「病苦が不幸である」とも。
「勝手に決め付ける」コトは、しない。
「貴様は不幸な人間なのだ」と、
「外野から決め付ける」コトは。
ファシストの「美意識に反する」から。
「貴様の不幸は、貴様で規定しろ」
「貴様の幸福も、貴様で規定しろ」
これほどにも、“ファシズム”とは、
「ヒトデナシの政体」であるのだ。
だから“我々”は「アンチリベラル」を、
まったく堂々と、主張し得るのである。
「同情するならカネをくれ!」と心から叫ぶ、
「己の『不幸』は『カネが足らない』その一点!」
「他に『同情』されるような謂れなんか、無い!」
もちろん、フィクションのお話ではあるのだが、
ソレは実に「アンチリベラルの意志」であった。
「同情するならカネをくれ!」とは、
なかなかの「詩」であったと言える。
すべては。
「詩人が野垂れ死ぬ自由」のため。
“ファシズム”とは。
「貧乏長屋の政治」である。
以上、御拝読のほど、誠にありがとうございました。