社畜な鯱狗の妄想雑記

吾唯足知、即身仏。南無、阿弥陀佛。

倉阪鬼一郎『波上館の犯罪』を《第五の奇書》に推す


もちろん、アフィリエイトではない。
ただ、一人でも多く、読みたまへ(笑)。

注:
「犯人」を含めて、以下のレビューは、
「瑣末事のネタバレ」については、厭わない。

実際、この作品に「フーダニット」などといった、
いわゆる“ミステリ”的な「価値」は殆ど「皆無」。



中井英夫『虚無への供物』(1964年)
--以上が、世に言う《三大奇書》。

竹本健治『匣の中の失落』(1978年)
--此れが《第四の奇書》と、目される。

そして、私は、其処に。

倉阪鬼一郎『波上館の犯罪』(2014年)
--此れを《第五の奇書》に、加えたい。



始めに、断っておく。
『波上館の犯罪』は、いわゆる“バカミス”ではない。
此れは、作者自身が断りを明言しているのだが、
改めて、強調しておきたい。
作者にとって、本作は、そのライフワークとする、
交響曲シリーズ”の“第6番”であること。

交響曲シリーズ”とは--。
(波丘駿一郎に叱られそうだが)
あえてジャンルで括るのならば、作者の、
「芸術館/死生観」を前面に打ち出した、
幻想文学”のシリーズと、言えよう。

そして作者は、一方で、紛うこと無き、
エンタメとしての“バカミス”に精通しており、
「ある技術」を、その中で磨いてきた。

その「ある技術」を用いて、しかも、
“ミステリ”の「形式」で書き上げたから、
一部では「誤解」があるらしい故に、注記。



犯行の「手口」は「杜撰」を極めている。
しかも、その「杜撰」は“バカミス”として、
「笑いを取るため」ですらない。

強いて言えば、その「杜撰」は、いわば、
“一個人”ではなく“波丘駿一郎の娘”という、
犯人の「幼稚」の発露と見るべきだろう。

“娘”--すなわち“子供”であるが故に、
その「責任逃れ」は「杜撰で幼稚」だ。

ただし「行き当たりばったり」ではない。

特に“第二の殺人”--間島殺しは、
赤羽根警部には、絶対に「推理できない」。
自明な「“波上館”の必然」に則り、
成功させることができたわけなのだ。

《奇書》の「核心」である、
“アンチミステリ”を、充分に満たしている。



「“リーダビリティ”が悪い」という批判がある。

--随分と、勇気のある批判者だ。

「自分は“波丘駿一郎の亡霊”に、殺されはしない」
という「無邪気な自信」が無ければ、
『波上館の犯罪』を“リーダビリティ”の観点から、
批判することなど、とても出来やしないだろう。

というか、其れこそ《三大奇書》を、
“リーダビリティ”の観点から批判しても、
其れは「無意味」ではないか!(笑)

--此の作品も「同じ」だ。

ひょっとして“ノベルス形式”だから、
侮られているのかもしれないが、
其れこそ「ある技術」のための要請であり、
つまりは、最終的に行き着く「美」のための、
ただ、その一点に奉仕するための“文章”であり。

「必然的な“リーダビリティ”の悪さ」も、
また《奇書》の「核心」であることを、
思い出されたし。……其れでも、少なくとも、
軽く一万倍ぐらいは、読み易いからね!?(爆)



此の作品は、
『波上館殺人事件』ではない。

此の作品は、
『波上館の犯罪』である。

だから「告発」されるのは、
「殺人」ではなく「犯罪」だ。

「殺人」も「手口」も「犯人」すらも、
結局のところは「瑣末事」でしかない。



--何故《奇書》は、“ミステリ”なのか。

其れは「通俗のジャンル」であるからだ。

「通俗のジャンル」に、突如として、
恐るべき“神憑り”を起こした“文学の者”が、
ナイフを手に、狂乱の風態で、殴り込むからだ。

つまり「被害者」は、“ミステリ”だ。

だから人は、其れらの《奇書》をして、
“アンチミステリ”と、呼ぶわけである!(笑)



そして私は、以前より、
中井英夫『虚無への供物』に対する、
「傾倒」を、表明してきた。

--なればこそ、言わねばなるまい。

倉阪鬼一郎『波上館の犯罪』は、
紛うこと無き“アンチミステリ”であり。

そして。

“アンチ『虚無への供物』”の性格を、備える。

『虚無への供物』が、
タナトスが見下ろした、海底のエロース」なら。

『波上館の犯罪』は、
「エロースが見上げた、波上のタナトス」である。

--奇しくも、中井英夫は、こう述べた。



小説は天帝に捧げる供物、
一行でも腐っていてはならない。



嗚呼、何ということか!

まさに『波上館の犯罪』を、
「絶賛している」ではないか!!!



莫迦げている?不毛な徒労??

さういうことは、まずは、
一文たりとも斜め読みすること無く、
完ペキに読破してから、申し上げなさい。
……もちろん、私には無理だ!(爆)



《奇書》の「核心」は、
“神憑り”を起こした、作者の「意志」だ。

倉阪鬼一郎、並びに、波丘駿一郎に、
敬意を評して、其れを“脳波”と呼んでも、
私は、一向に差し支えない(笑)。



以上の拙文を以って、
倉阪鬼一郎『波上館の犯罪』を、
《第五の奇書》に、私は推したい。

御拝読のほど、誠にありがとうございました。