社畜な鯱狗の妄想雑記

吾唯足知、即身仏。南無、阿弥陀佛。

仮説

otominarukami.hatenablog.com

 

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アルバムを出せば、何千万枚も売れて。
ライブを演れば、何万人のファンが跳ねて。
 
カネも名誉も、手に入れて。
プレイメイトのトロフィー・ワイフも。
6人の子宝にも、恵まれて。
 
--それでも。
 
 
 
 
 
“届いた実感”が。
 
“無かった”んでしょう。
 
自分の“歌”が。
 
 
 
“Why is everything so heavy?”
 
“Nobody can save me.”
 
こうもハッキリと、言っている。
 
 
 
 
 
……フレッド・ダーストや大仁田厚は、
自分のやっていることは“ショー”であり、
ファンが楽しんで、“消費”してくれれば、
それで“満足”という“エンターテイナー”。
 
ジョナサン・デイヴィスやビリー・コーガンは、
(或いは、Radioheadトム・ヨーク辺りも?)
音楽的な“探究心”が尽きない、“芸術家”であり。
 
 
 
チェスター・ベニントンや、
カート・コバーンは、“違った”。
 
まるで“ファッション”のように、
“消費”されるのが、耐えられなかった。
 
--むしろ、ファンが増えれば、増えるほど。
 
“消費”は、加速していく。
(チェスターもカートも“反資本主義”)
 
“賞賛”の声と引き換えに、
“共鳴”は置き去りになる。
 
 
 
 
 
これ以上、何を歌ったって。
 
どうせ“届かない”のなら--。
 
 
 
 
 
“ファン”を「裏切った」んじゃない。
 
“ファン”を「信じられなかった」だけ。
 
それは「始めから」今まで、ずっと。
 
 
 
 
 
穢れた蒼い血の流れる、
吸血鬼、人狼、竜、蛇。
 
 
 
 
 
ただの、下らない無責任な“仮説”。
 
ではでは。