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社畜な鯱狗の妄想雑記

プロレスとか雑食系。《オカダ推し妄想論》を不定期更新。

「反知性主義の台頭」と書いて

✳︎

「世の中バカばっか」と読ませて、これ見よがしに嘆く。

そんな「識者」を見ると、頭痛が痛くなる鯱狗です(苦笑)。



反知性主義者」が「バカ」って、

…もしかして、バカにしてます??



反知性主義」ってのは、

「道徳」と「倫理」の話ですよ。



いかに「科学」が「世界」を「解明」したとても、
その「外側」から「世界」を見守る「超越者」を。

すなわち「神」を。

(「神」という表現を避けるなら「深遠なる知性」を)

「畏れよ」という「倫理」。

裏を返して表現するなら、

「ルシファーを遠ざけよ」

という「警鐘」。

「ルシファー」、すなわち。

「傲慢」という「罪」を、です。



あなたは、あなたの良き隣人は、


変貌をしてしまってはいないか。



そんな、とても素朴な「倫理」の、
「正しい側面」「誤った側面」を、
議論するのは、大切なことですが。

頭ごなしに「遅れた未開人」と決め付けてかかるのは、
まさに「フランケンシュタイン博士」の「傲慢」では?



『神は妄想である』と喝破した、無神論者のドーキンスですが。

仮に、

「神の肯定は有害である」

という主張が、完全に正しかったとしても。

「従って、神の否定は有益である」

という結論が導き出されないのは、論理的な思考の初歩なのでは?

「神の肯定の害」「神の肯定の益」
「神の否定の益」「神の否定の害」

この対偶を、果たして「量的に比較」し得るというのでしょうか。

(なお《パスカルの賭け》は、「実在し得る神が人に与える益と害」の考察であり、「神を信じて現世に生きる益と害」とは、まったくの「別物」であることに留意)



無神論者は迫害されている」

一神教が大勢を占める社会では、多くの場面で、それが真実であっても。

無神論者を、

「ブライト(開明者)」

などと称するドーキンスの情熱は、まるで迫害に抗う「殉教者」のよう。



…それでは、もし。

無神論者が大勢を占めるような社会へと、生まれ変わったとしたなら?



嬉々として「未開人」を「教化」しようと試みて、
あくまで従わない「野蛮人」は「掃討」に掛かる。

「ブライト協会(…教会?)」の、

「会長(…教皇?)」に収まるのは。



他ならぬ、ドーキンスなのでは?



それこそが、
「ルシファー」の「降臨」なのでは?



…それでも、なお。

「神の否定は無害」「それどころか有益」であると?

(「神の肯定は無害」とも、同様に、申し上げません)



「怪物と闘う中で、自らが怪物と化さぬように心せよ」

「汝が深淵を覗く時、深淵もまた汝を覗いているのだ」



「神は死んだ。神は死んだままだ。そうだ、我々が神を殺したのだ」

と宣言した、とある「アンチ・クライスト」が私達に遺した「警句」。



反知性主義の台頭」が意味するのは、

「世の中バカばっか」などではなくて、

「ルシファーの台頭への危惧」ですよ。

…それが、果たして本当に。

「道徳を荒廃させるルシファー」なのか。

それとも、

「叡智をもたらすプロメテウス」なのか。



「答え」を知るのは、ただ、神のみぞ也?



「知恵の実」も「原罪」も我関せずの、
「消極的な無神論者」の鯱狗、断想す。