「反知性主義の台頭」と書いて
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「世の中バカばっか」と読ませて、これ見よがしに嘆く。
そんな「識者」を見ると、頭痛が痛くなる鯱狗です(苦笑)。
「反知性主義者」が「バカ」って、
…もしかして、バカにしてます??
「反知性主義」ってのは、
「道徳」と「倫理」の話ですよ。
いかに「科学」が「世界」を「解明」したとても、
その「外側」から「世界」を見守る「超越者」を。
すなわち「神」を。
(「神」という表現を避けるなら「深遠なる知性」を)
「畏れよ」という「倫理」。
裏を返して表現するなら、
「ルシファーを遠ざけよ」
という「警鐘」。
「ルシファー」、すなわち。
「傲慢」という「罪」を、です。
あなたは、あなたの良き隣人は、
「フランケンシュタイン博士」に、
変貌をしてしまってはいないか。
そんな、とても素朴な「倫理」の、
「正しい側面」「誤った側面」を、
議論するのは、大切なことですが。
頭ごなしに「遅れた未開人」と決め付けてかかるのは、
まさに「フランケンシュタイン博士」の「傲慢」では?
仮に、
「神の肯定は有害である」
という主張が、完全に正しかったとしても。
「従って、神の否定は有益である」
という結論が導き出されないのは、論理的な思考の初歩なのでは?
「神の肯定の害」「神の肯定の益」
「神の否定の益」「神の否定の害」
この対偶を、果たして「量的に比較」し得るというのでしょうか。
(なお《パスカルの賭け》は、「実在し得る神が人に与える益と害」の考察であり、「神を信じて現世に生きる益と害」とは、まったくの「別物」であることに留意)
「無神論者は迫害されている」
一神教が大勢を占める社会では、多くの場面で、それが真実であっても。
無神論者を、
「ブライト(開明者)」
などと称するドーキンスの情熱は、まるで迫害に抗う「殉教者」のよう。
…それでは、もし。
無神論者が大勢を占めるような社会へと、生まれ変わったとしたなら?
嬉々として「未開人」を「教化」しようと試みて、
あくまで従わない「野蛮人」は「掃討」に掛かる。
「ブライト協会(…教会?)」の、
「会長(…教皇?)」に収まるのは。
他ならぬ、ドーキンスなのでは?
それこそが、
「ルシファー」の「降臨」なのでは?
…それでも、なお。
「神の否定は無害」「それどころか有益」であると?
(「神の肯定は無害」とも、同様に、申し上げません)
「怪物と闘う中で、自らが怪物と化さぬように心せよ」
「汝が深淵を覗く時、深淵もまた汝を覗いているのだ」
「神は死んだ。神は死んだままだ。そうだ、我々が神を殺したのだ」
と宣言した、とある「アンチ・クライスト」が私達に遺した「警句」。
「反知性主義の台頭」が意味するのは、
「世の中バカばっか」などではなくて、
「ルシファーの台頭への危惧」ですよ。
…それが、果たして本当に。
「道徳を荒廃させるルシファー」なのか。
それとも、
「叡智をもたらすプロメテウス」なのか。
「答え」を知るのは、ただ、神のみぞ也?
「知恵の実」も「原罪」も我関せずの、
「消極的な無神論者」の鯱狗、断想す。