板子一枚下は
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「自分は、たまたま、幸運にも落伍者ではなかった」
という、理性を超えた直感。身体感覚。
それが、世界の「見え方」を180度、違ったモノにするのかもしれない。
むしろ、ニーチェの超人思想にこそ、親和性を示すのではないか?
成功者は自助努力であり、
落伍者は自己責任であると。
そして実際、愚者は人ではない。
獣か、さもなくば家畜であると。
或いは、愛らしければペットにしても良い。
ソレが、
獣か、家畜か、ペットか。
決めるのは人だ。
「人と自認する者」が、選別する。
獣は、落伍者を同じ獣として笑うだろう。
人は、落伍者を人外の獣として処断する。
ひび割れた薄氷の上で震える、醜い獣。
…もしも、転落したのなら。
高い知性と啓蒙精神に満ち溢れた貴方は、
私を一瞥して、そのまま立ち去るのだろう。
板子一枚下は、地獄。
「…するってぇと、なんだい?人は、ペットから家畜から獣にまで選挙権を与えた挙句、ただ『人に支配されるのはもう嫌だ!』と叫んだ獣が王に選ばれたことに、驚き、嘆き、悲しんでいるのかい?」
「そうだよ、ラプラス。君に驚くようなことなど、何も無いだろう?何だったら、ここにも一匹の獣がいる。私の頭を覗いてみたら良い」
「いやいや旦那。あっしは、ただ『世界は必然である』と知るばかりで、天に召します人の子らの神の『思し召し』なんて、これっぽっちも存じ上げませぬ。土着の神、隙間の神、量子力学の彼岸」
「実際のところ、旦那の頭を覗いたところで、そこには原子仕掛けの鳩時計しかないのでさぁ。旦那が生ける死者でない証など」
「まさに、神のみぞ知る」