仮説
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アルバムを出せば、何千万枚も売れて。
ライブを演れば、何万人のファンが跳ねて。
カネも名誉も、手に入れて。
元プレイメイトのトロフィー・ワイフも。
6人の子宝にも、恵まれて。
--それでも。
“届いた実感”が。
“無かった”んでしょう。
自分の“歌”が。
“Why is everything so heavy?”
“Nobody can save me.”
こうもハッキリと、言っている。
……フレッド・ダーストや大仁田厚は、
自分のやっていることは“ショー”であり、
ファンが楽しんで、“消費”してくれれば、
それで“満足”という“エンターテイナー”。
ジョナサン・デイヴィスやビリー・コーガンは、
音楽的な“探究心”が尽きない、“芸術家”であり。
チェスター・ベニントンや、
カート・コバーンは、“違った”。
まるで“ファッション”のように、
“消費”されるのが、耐えられなかった。
--むしろ、ファンが増えれば、増えるほど。
“消費”は、加速していく。
(チェスターもカートも“反資本主義”)
“賞賛”の声と引き換えに、
“共鳴”は置き去りになる。
これ以上、何を歌ったって。
どうせ“届かない”のなら--。
“ファン”を「裏切った」んじゃない。
“ファン”を「信じられなかった」だけ。
それは「始めから」今まで、ずっと。
穢れた蒼い血の流れる、
吸血鬼、人狼、竜、蛇。
ただの、下らない無責任な“仮説”。
ではでは。