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社畜な鯱狗の妄想雑記

ファシスト見習い。すべては音楽。詩集『円周』。

“ファシズム”の「参照先」は、果たしてニーチェなのか

✳︎



“我々団”総統、外山恒一閣下の諸論文には、
大いに感銘を受けている、鯱狗なのですが。

しかし…実は一点、
意見が「相違」するのが、表題の件。

総統閣下は、
ファシズムもナチズムも、大して変わらぬ」
「せいぜい、ニーチェハイデガーの違いだ」
と、仰られるワケですが。

鯱狗の考えでは、
ファシズム”と“ナチズム”は、
「明確に違う」のではないかと。

その「違い」を生む点こそが。



“ナチズム”は、
ニーチェを参照してしまった」
という点なのではないかと。



…何故なら。

「神は死んだ」と宣言をして、
「意志の勝利」を掲げるのは。

極左の怪物」ロベスピエール然り!



“リベラル”側の「本質」だから!!!



ソレこそが、
「ナチズムのスターリニズム的性質」であって、
ファシズムからの変容・劣化」ではないかと。

鯱狗は、そのように考えるワケです。



総統閣下のファシズム論にて、
何と言っても、素晴らしいのは。

ファシストは『故郷喪失者』でなければ、ならぬ」
「その上で『故郷を創造する』のが、ファシストだ」

という「ファシズムの本質」を規定した点。

《“おかしのまちおか”がある「アーケード街」は》



「戦争」という、まさしく「極致」での、
「人倫の限界」と「獣性の高揚」を知る、
我らがドゥーチェの発見した「境地」は。



つまり……むしろ。



「故郷の喪失への確信」という。

「“ニヒリズム”の極致」にこそ。

「核心」があるのではないかと。



だからこそ、
ドゥーチェの「知性」は、
極左」に端を発しながら、
「リベラルを脱した」のでは?



ファシスト”は、常に「確信犯(誤用)」です。

何故なら。

「故郷」さえも、アッサリと「喪失」するほど、
「取るに足らぬモノ」であると「知っている」。

だから「確信犯(正調)」に足り得るような、
「審美(イデア)」など決して「信じない」。

その上で。

「確信犯(誤用)」として、
「革命ゴッコ」に「興じる」。

「革命ゴッコ」をこそ、
「故郷」であると、
「自覚的」に「己を騙す」。

ファシズムは擬似革命」という指摘は、
まったく、全面的にも「正しい」ですし、
ファシストは、それを「自覚」している。

その「痛切で滑稽な自覚」こそが、
山岳ベースで「総括」を繰り返した“彼ら”と、
“我ら”ファシストとを、明確に「区別する」。

言ってしまえば。

「格闘技」など「ツマラヌ」から、
「プロレス」を「発明する」のが。

ファシスト”であるワケです!(笑)



違いは「単純」。



ファシズム”は、
「確信犯(誤用)」として、“団結”を「目的」とする。

“ナチズム”は、
「確信犯(正調)」として、“団結”を「目的」とする。

「確信犯(正調)」として、“団結”を「手段」とする。



つまり、ナチズムとは、
本来ならば「対偶」であるべき、
「鬼子」であるワケです。

だからこそ、我らがドゥーチェは、
フューラーを「小馬鹿」にしますw

だって、ナチズムには、
ドゥーチェの愛する「可笑しみ」が足りない!

コレだから、ドイツ人ってヤツは…と、
ドゥーチェも呆れるワケですよ(苦笑)。



「正調ファシスト」ならば。

「退廃芸術」を「可笑しむ」。



ナチズム、或いはスターリニズムから、
ファシズムを見分ける「単純な違い」。

「詩人」の類が「生き延びられる」のは、
或いは「プロレスの興行」を打てるのは、
Marilyn Mansonのライブ」に行けるのも、
この三者の中じゃ、ファシスト国家だけ!(笑)



ファシズム”とは。

「退廃芸術」そのもの。



以上、御拝読のほど、誠にありがとうございました。