黒沢清監督と白石晃士監督の「共鳴」
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黒沢清監督の
『CURE』『カリスマ』『回路』
白石晃士監督の
『オカルト』『殺人ワークショップ』『ある優しき殺人者の記録』
そして、
「VシネのB級モキュメンタリー」の体を成しながら、
まさかの「伏線まみれの連続ストーリー作品」という、
『戦慄怪奇ファイル・コワすぎ!』サーガ。
(この1㎜も作家性を感じさせない、頭の悪すぎるタイトルさえ、白石監督の確信犯!)
(しかも、その『最終章』が、まさかの『オカルト』『殺人ワークショップ』から連なる「江野祥平サーガ」の「最終章」でもある…って、商業作品を全力で趣味同人に引っ張る確信犯!!)
(江野クンは「天使」!!!)
…ゴホン!(咳払い)
え〜、この両監督の作品群。
正統派のスタイリッシュな厨弐病(笑)文法の黒沢監督と、
モキュメンタリーに憑かれた変態(汗)文法の白石監督と。
「文法」の違いこそあれ、
「主題」の部分が物凄く。
「肉薄」しているのではないでしょうか。
すなわち。
「此岸」と「彼岸」は、
「重なり合って」おり、
その「レイヤー」を、
つまりは「幽冥の境」を、
分かつモノは「唯一つ」。
「人倫」であると。
自らの強靭な意志力であれ、
抗いようの無い強制であれ、
「人倫」を、「踏破」してしまえば。
そこは「彼岸」なのだと。
…この「世界観」。
鯱狗は、ごく個人的に。
物凄く「共鳴」してしまうのです。
白石監督の初期作『ノロイ』では、
まだ正統派のモキュメンタリーとして、
「儀式」には民俗学的な「文脈」が肉付けされていた。
それが『コワすぎ!最終章』ともなると、
「試練」の内容から、明らかに意図的に、
「文脈」がごっそり削ぎ落とされている。
…鯱狗は、その「試練」を見て。
初代ポケモンの「バグ技」を思い出しましたよ、マジで(苦笑)。
「文脈」という「アナログ」を剥ぎ取られた先に、剥き出しの「世界」は。
「人倫」によって「プロテクト」された、無限の「デジタル」の「荒野」。
それでも、なお。
「人」として「生きる」ことを願うのなら。
ワゴン車で撥ね飛ばして、
金属バットを振りかざして、
「踏破」し続けるしかないのだ。
「個人的な物語の回復」のための、
「社会的な秩序の破壊」という解。
両監督の、世間の評価は存じ上げませんが。
その幾つかの作品は、鯱狗にとって。
「灯台」で、在り続けるのでしょう。
妖かとも見紛う灯が煌々と。
決して目を離してはならぬ。
然れども近付いてはならぬ。
以上、御拝読のほど、誠にありがとうございました。