『ぼくを探しに』は「ファシズム入門書」に最適!
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《呪詛と断想の“ファシズム”》
《だから“ナチズム”は「失敗」であった》
鯱狗が物心の付いた時分には、
「宝物」であった絵本がある。
『しろくまくん、どこへ?』
『わすれられないおくりもの』
そして。
『ぼくを探しに』
この、三冊であった。
もちろん、その当時には、
判るハズも無かった(笑)が。
今にして、思えば。
『ぼくを探しに』という絵本は、
アレほど「抽象化」されてしまえば、
ほとんど「詩」のようなモノで、
つまりは「政治の匂い」がするのだ。
ソレこそが、他ならぬ、
“ファシズム”ではないのか。
あの物語は、
“ぼく”と、無数の“きみ”達によって、
構成されている。“ぼく”もまた当然、
誰かにとって、無数の“きみ”である。
そして“ぼく”は、およそ99%の、
“きみ”とは「分かり合えない」。
その上で。
もし、たった1%の“きみ”と、
奇跡のように、巡り会って、
「分かり合えた」としても。
ソレは「歌う自由の喪失」であって。
「幸福」とは「違うモノ」であると。
そこまでを、描いてみせているのだ。
…注意深く、読み解いて、頂きたい。
物語には、徹頭徹尾、
「“きみ”への配慮」などは「無い」。
あくまで、すべては、
「“ぼく”のため」でしか、ないのだ!
その「傲慢」こそが、
“ファシスト”に「目覚める」第一歩。
「孤独な、無数の“ぼく”達」が、
「歌いながら、転がり続ける」。
花の香りを嗅いで、蝶と戯れて。
ソレが“ファシスト”の「理想」。
「歌う自由」も、
「花を嗅ぐ自由」も、
「蝶と戯れる自由」も、
すべて「喪失」してでも。
“ぼく”と“きみ”は、
「分かり合わねばならない」。
ソレこそが「幸福」であると。
“ぼく”を脅迫するモノが、
“スターリニズム”である。
あなたが「ファシストではない」のなら、
あなたの子供には、『ぼくを探しに』を、
「読ませるべきではない」と、忠告する。
「抽象化されたモノ」というのは、
「詩」であり、「政治」であって、
だいたい「危険」であるのだから。
もし、万が一にも(笑)、
「ファシスト国家」が樹立された暁には、
『ぼくを探しに』は、小学校の一年生の、
「教科書」に採用せねばなるまい( ̄▽ ̄)
ソレぐらいには、
「ファシズム入門書」として、素晴らしい!
まぁスラスラと、読み解いて貰わなければ、
「ファシスト国家」では「出世」できぬよw
高校生にもなったら、
ロラン・バルトに挑戦させるのが、よろしい。
実際のところ、
バルトは「反ファシズム」であるというより、
「反ナチズム」であり、彼の“神話”の認識は、
極めて“ファシスト”として「正しい」(苦笑)。
しがない「ファシスト見習い」より、
バルトに反駁を試みるとするならば。
「発言を強要する」のは“ナチズム”であり、
つまるところは、“スターリニズム”である。
“ファシズム”は、「発言を聞き流す」のだ。
およそ、「ありとあらゆる側面」において!
ではではw